所与の神話 myth of the given
「所与の神話(myth of the given「 予件の神話」 ともいう)」の批判とは、次のような議論からなっている。 所与という言葉は日本語としては硬い表現であるが、その意味は「与えられたもの、データ」ということである。私たちは普通、何かを認識している人間の精神の働きを、データとその加工の過程と考える。つまり、われわれの心には、外界からの刺激が生のデータとして直接に与えられていて、われわれはその刺激を自分の思考の形式にあった形に加工して、心のなかで表象したり思考したりしている、と考えがちである。
すなわち、データの与えられ方は、まさに生のままの刺激としてあるために、因果的な働きをもつということ、また、それが直接的な因果的作用であるために、そこには認知的な誤謬が入り込む余地がない、ということである。
データを受容し、それを加工して表象するという認識論における表象主義においては、このような理屈にもとづいて所与の存在は認識の正当化の目論見に直結すると考えれる。